AIの急速な発展を目の当たりにして、ある疑問が頭から離れない。
「今の時代、高校や大学って本当に必要なのか?」
多くの人は「良い大学に行けば良い会社に入れる」という古いレールにぶら下がっている。しかし、AIの発展と学習環境の変化を見れば見るほど、その前提が崩れつつあることに気づく。
これは極端な考えだろうか?それとも、時代の変化を直視した合理的な判断なのか?
なぜ今、学校が不要だと感じるのか
学習の民主化が完了しつつある
今や、学ぶための環境は劇的に変化している:
- 専門書や学術論文は誰でもアクセス可能
- オンライン講座(Coursera、Udemyなど)で世界トップクラスの講義を受講できる
- AIチューター(ChatGPT、Claudeなど)が24時間、基礎から高度な概念まで解説してくれる
- 実践環境もクラウドサービスで即座に構築できる
工学分野でも、必要な本は自分で買える。AIがメンターになる。国家資格も調べられる。特殊な道具や機器が必要な場合でも、学校以外の方法はいくらでもある。
つまり、「学校でないと学べない」という前提が崩壊している。
学校が提供する価値の陳腐化
従来、学校は3つの価値を提供していた:
1. 知識の伝達 → 上記の通り、独学で十分に取得可能
2. シグナル(学歴)としての価値 → GitHubのコントリビューション、技術ブログ、個人開発の実績など、より直接的な能力証明が可能に。企業もポートフォリオや実技試験を重視する傾向が増加している
3. ネットワーク(出会い) → 「なんとなく行く学校」より、自分の本質的な活動(オープンソースプロジェクト、ハッカソン、専門コミュニティ)の方が、質の高い出会いがある可能性が高い
学校が提供する価値は、そのコスト(時間、学費、機会損失)に対して見合わなくなってきている。
「選択」ではなく「必然」としての不要化
ここが重要なポイントだ。
私は当初「学校に行かなくても良さそうだ」と思っていた。つまり、選択肢の一つとして学校不要を考えていた。
しかし、深く考えるほど、これは選択の問題ではなく構造的必然だと気づいた。
DX化・AI化の進展
↓
企業が求める人材像の変化(自律的学習者・実績ベース)
↓
従来型の学校教育を受けた人材の市場価値低下
↓
生き残るために「自律的に学べる人」にならざるを得ない
↓
結果的に学校は不要になる
つまり、「学校に行かなくていい」ではなく「学校に行っても意味がなくなる」。
これは、能力のある人もない人も、セーフティネットが必要な人も、全員に当てはまる。なぜなら、学校はもはや「保護」してくれないからだ。むしろ学校に行くことで貴重な時間を浪費し、自律性を獲得する機会を失う可能性すらある。
義務教育と高校・大学の区別
誤解のないように言っておくと、義務教育は必要だと思っている。
10代前半の子どもたちにとって、自己管理能力や学習計画力はまだ発達途上だ。基礎的なリテラシー(読み書き計算)、情報リテラシー、社会性を学ぶ場としての義務教育には意義がある。
しかし、高校・大学は別だ。
高校・大学に進学する年齢になれば、自律的な学習が可能になる。そして、その時点で従来型の教育パッケージは、AIやオンラインリソースと比較して圧倒的に非効率になる。
唯一の例外は、医療・法律など学校でないと取れない国家資格がある分野だけだ。
AI時代に起こる「分断」
行動力格差の二次曲線的拡大
学校が不要になる時代は、同時に新たな格差を生む。
それは単なる経済格差ではなく、存在意義に関わる深い分断だ。
AIは、使う人の能力を増幅する道具だ:
【航海者層】
- 行動力・自律性がある
- AIを「増幅器」として活用
- 生産性が10倍〜100倍に
- 実績・収入・影響力が指数関数的に増大
- 精神的充足も高まる(自己実現の達成感)
【乗客層】
- 行動力・自律性がない
- AIを「依存先」として使用(指示待ちの強化)
- 創造性・判断力が萎縮
- 経済的価値が低下(多くの仕事はAIに代替)
- 精神的空虚感(無力感・無意味感)
AIがハードルを下げても、たくさん行動して思い切ったリスクが取れる人と、せいぜい起業して終わりの人では、結果に二次曲線的な差が生まれる。
ベーシックインカムが解決策にならない理由
「AI時代にはベーシックインカムがあればいい」という意見をよく聞く。
しかし、ベーシックインカムは焼石に水だ。
なぜなら、ベーシックインカムは「生きるための金」は与えられるが、「生きる意味」は与えられないからだ。
人間に必要なのは:
- 承認: 自分の存在が社会に必要とされている感覚
- 役割: 他者に貢献しているという実感
- 成長: 能力開発・自己超越の機会
- 社会接続: 共同作業を通じた人間関係の構築
ベーシックインカムは生理的欲求・安全欲求を満たすが、社会的欲求・承認欲求・自己実現欲求は満たせない。
精神的に満たされない社会では、分断はさらに深刻化する。
必要な対策は何か
「意味ある参加」のためのインフラ
行動力がない人への支援として必要なのは、金銭的保障だけではない。
**「ワークインフラ」**のような、誰でも意味ある貢献ができるプラットフォームが必要かもしれない。
例えば:
- 段階的な貢献の場: 簡単なタスクから始めて、徐々に複雑なプロジェクトに参加できる仕組み
- 実績の可視化: どんな小さな貢献も記録され、スキルマップとして可視化される
- コミュニティベースの承認: 金銭報酬だけでない「感謝」「尊敬」の循環
- 低摩擦な挑戦環境: 失敗しても大丈夫な実験的プロジェクトの場
こうしたインフラがあれば、「仕事か無職か」の二択ではなく、段階的な参加と成長が保証される。
GDP的価値観からの転換
もう一つの問題は、GDPという指標そのものだ。
GDPは「とにかく生産しろ」と誘導する仕組みだが、AIを使えば生産はできる。行動力とやり抜く力がある人はGDP的指標では有利だが、その逆の人は不利になる。
しかし、それはGDPが大義名分になっているから肩身が狭くなっているだけだ。
内向的な人は、想像力や深い思考が得意な傾向がある。そういう人が活躍する場が必要だ。
エンタメでも、芸術でも、文学でも、哲学でも、社会批判でも——こういう目に見えない何かを生産することにフォーカスすべきだ。
AI時代だからこそ、物質的生産から精神的・創造的価値への転換が求められる。
GDPという生産至上主義の指標を捨て、新しい「豊かさ」の定義を社会全体で考え直す必要がある。
これからの問い
学校という制度は、かつて画一的な人材を大量生産するためのパッケージだった。それを権威で正当化してきた。
しかし、AIの登場でその実質的価値は低下し、権威の化けの皮が剥がれつつある。
次に待っているのは、GDP宗教からの解放だ。
GDPは一種の宗教のように、「経済成長=善」「生産性向上=正義」という教義を社会に刷り込んできた。これは意図的に設計されているように感じる。
それを破るには、人間の内なる声を刺激する疑問の投げかけが必要だと思う。
誰かが疑問を投げる。社会がおかしな方向に進むとき、初めて大衆は疑問を持つ。疑問の種が撒かれ、土壌が整った人から発芽し、その人がまた新たな種を撒く——そんな連鎖的な変化が起きれば、危機を経ても比較的穏やかに新しい時代に移行できるかもしれない。
あなたは、どう思いますか?
学校は本当に必要なのか。AI時代の「豊かさ」とは何なのか。
答えはまだない。ただ一つ言えるのは、疑問を持つこと自体が、変化の第一歩かもしれないということだ。


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